好きか嫌いか、その間はないのさ

ジョニー・サンダースは1952年7月15日ニューヨークはクイーンズの生まれ。本名ジョン・アンソニー・ゲンゼル。少年時代は野球に夢中になったが髪を切らねばならないという理由で野球を断念。7歳年上の姉のマリアンの影響でシャングリラスやロネッツ、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントらのロックン・ロールに夢中になる。
15歳の時に最初のバンド、ジョニー&ザ・ジェイウォーカーズを結成。1971年にデヴィッド・ヨハンセン(VO),シルヴェイン・シルヴェイン(G)らとニューヨーク・ドールズを結成し、ジョニーはドールズのギタリストとしてセンセーショナルなデヴューを飾り、マーキュリー・レコードから『New York Dolls』(73)、『Too Much Too Soon』(74)の2枚のアルバムを発表する。全員女装に化粧をしたデヴュー・アルバムのカヴァーも話題になり、アメリカ版グラム・ロッカーと評されるが、その音楽性はリズム&ブルースやオールディーズ・ロックン・ロールをルーツとしたもので、ローリング・ストーンズに対するアメリカからの回答、等とも言われた。だがメンバー間の確執やドラッグ問題が引き金となり、75年ジョニーとドラムのジェリー・ノーランはドールズを脱退し、元テレヴィジョンのリチャード・ヘル(B&VO)と元デモンズのウォルター・ルー(G)を加えて新たにハートブレイカーズを結成するも、ほどなくしてヘルが脱退し新たにビリー・ラス(B)が加入。後期ドールズのマネジャーをやっていたマルコム・マクラレンの招きでイギリスに渡り、セックス・ピストルズの「アナーキー・ツアー」にクラッシュ、ダムドらと共に参加し、「元祖パンク・ロッカー」としてロンドンのパンク・キッズから熱狂的に迎えられる。
彼らはロンドに留まり77年に英トラック・レコードから最初で最後のオリジナル・スタジオ・アルバム『L.A.M.F』(Like a Motherfuckerの意味)をリリースするが、アルバムのミキシングを巡るメンバー間の対立や、ドラッグ問題で77年に解散してしまう(後に何度か再結成された)。
その後のジョニーはヨーロッパを活動の拠点とし元セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスとバンド結成の話もあったが、結局流れ、ソロ・アーティストとして活動していく。何枚かのスタジオ録音盤と数多くのライヴ盤が発売されたが、その中では78年にRealレコードからリリースされた『SO ALONE』 が最高傑作と言われている。そこには元ハンブル・パイのスティーヴ・マリオットやシン・リジーのフィル・リノット、プリテンダーズのクリッシー・ハインドら、豪華なゲストが参加し、ジョニーのバラード曲の名作である「You Can’t Put Your Arms Around A Memory」もスタジオ録音で収められている。
79年にジョニーはデトロイトへ移り、彼が敬愛していたMC5のギタリスト、ウエィン・クレイマーと共に新バンド、ギャング・ウォーを結成したが、短期間のライヴ活動とスタジオ・デモ録音をしただけで解散してしまった。また84年にはジョニーがアコースティック・ギターだけの録音でフランスのNew Roseレコードからアルバム『Hurt Me』を発表するが、このアルバムはジョニーのアナザー・サイドの魅力を堪能できる名作の1枚である。
その後のジョニーは積極的にヨーロッパ、アメリカ、日本をツアーしていたが、1991年4月23日に、日本公演に続くドイツ公演を終えて訪れていたニューオリンズのホテルの部屋で、心臓発作のため死亡した。地元のドラッグ・ディーラーに殺されたという説や、白血病に犯されていた等、さまざまな憶測が語られている。
ジョニーには元妻のジュリーとの間にジョン、ビト、ディノと、恋人だったスエ―デン人のスーザンとの間にジェイミーの計4人の子供がいる。
ジョニーは親日家であり、日本にも4度来日した。短期間日本に住んでみたいとさえ語っていた。そんなジョニーがレコーディングやセッションで親交を持った日本のミュージシャンには故忌野清志郎、故山口冨士夫、花田裕之(ルースターズ)、ZIGGY,ジミー倉田(THE BOTS)、えび、等がいる。また海外のミュージシャンでは、ガンズ&ローゼス、ハノイ・ロックス、イギ―・ポップ、セックス・ピストルズ、ラモーンズ、デッド・ボーイズ、ジグジグ・スパトニク、プライマル・スクリーム、モリッシー(元ザ・スミス)、ジョン・テイラー(デュラン・デュラン)等、数多くのミュージシャンから今も敬愛され続けている。
文・鳥井賀句(音楽評論家/プロデューサー)